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010コーヒーの伝播史の最近のブログ記事

《食文化の中のコーヒー史(運命の17世紀)》
   
ヨーロッパに於けるコーヒーの飲用史を追うと、17世紀の時代にヨーロッパ各地にコーヒー飲用が広がっているのが分かります。また栽培史を追うと、同じく17世紀に何かに押されるようにコーヒー栽培が伝わっています。
この二つの伝播史のはヨーロッパとインドという全く離れた土地を舞台にしながら、筆者の私には何か奥にキーワードがある気がしてなりませんでした。

ヨーロッパは大航海時代を経て17世紀にインドやインドネシアで
東インド会社経営を展開します。
では大航海時代は何故起こったのでしょうか?羅針盤の発明・航海技術の発達・東洋への関心などが要因と挙げられます。

大航海時代当来のもう一つの理由は、胡椒などのスパイスを生産現地に求めていたからなのでした。
当時のヨーロッパ人の食生活の維持には、単なる調味料以上の存在価値が胡椒にはあったのです。

胡椒を求める旅が大航海時代を呼び、大航海の旅の到着先が後にコーヒー栽培の舞台になって行きます。
その事から私は、全くの私説ですが『胡椒が珈琲を育てた』と思っています。

17世紀から18世紀のルイ14世と15世の時代にフランスにはコーヒー・カカオや、陶器・磁器が世界中から盛んに持ち込まれています。フランス料理が確立されたのもこの頃と言われています。
コーヒーは17世紀を皮切りに世界的な飲み物になって行きます。

その背景にはコーヒーを動かした人達の『食文化』が深く関わっていた事を知る事が出来るのです。

(イギリスも17世紀中ごろにはコーヒーを盛んに飲用していましたが、オランダ東インド会社がコーヒー栽培の実権を握った頃から同じインドで紅茶栽培に進んで行きました。)

エチオピア・アラビアをスタートした『千年のコーヒーの旅』も、もうそろそろ終わりです。

これで1年間、12回に渡った≪コーヒーの伝播史≫は終了です。
拙い文章にお付き合い頂きまして、ありがとうございました。

歴史家で作家の加来耕三氏は、歴史の中にIf(もしも)を持って入って行く事を提唱しています。

私たちが今、手にしている史実と史実の間に自分の想像を加える事、そしてそれを検証して行く作業は、歴史が私たちに与えてくれている、学習の喜びのチャンスなのでしょうね。

この企画は終了ですが、皆さんも、新しい≪コーヒーの伝播史≫の旅に出かけませんか?

筆者の私も、また、出掛けますね。

≪日本のコーヒー史≫
今回は日本のコーヒー史のお話です。
1639年の徳川幕府による鎖国令で、日本は外国との交流を絶っていました。唯一、長崎の出島において中国・オランダが通商を許されていました。そんな中で、日本人がコーヒーと出会ったのはこの頃の事です。

1690年頃、オランダが日本に初めてコーヒーを伝えた。と言われています。しかし、当時は限られた一部の日本人のみに伝わっただけでした。

日本の文献にコーヒーの記述が現れるのは、1782年 萬國管窺(ばんこくかんき) 蘭学者 志筑忠雄(しづきただお) 1783年 紅毛本草(こうもうほんぞう)蘭学者 林 欄?(はやしらんえん)写本などで、コーヒーの形状や呼び名を紹介しています。      
                         (国書総目録より)

日本人初のコーヒーの飲用記を書いたのは1804年 瓊浦又綴(けいほゆうてつ)の著者で 随筆家の大田蜀山人(おおたしょくさんじん)で、「焦げ臭く、味ふるに堪えず」と、コーヒーとの出会いを苦々しく書いています。

大田蜀山人は旧幕臣でありながら、狂歌や洒落本などを書いた作家です。またかなりな食通としても有名で、あの北大路魯山人のペンネームは蜀山人に由来したとも聞きます。

筆者の私の想像ですが、蜀山人が飲んだコーヒーはどんなコーヒーだったのでしょうか?
オランダで焙煎・粉砕され、長い船旅を経たコーヒーは飲みつけたオランダ人にはいつものコーヒーでも、初めての日本人には飲みつけなかったものと想像します。

それからの日本のコーヒー史を年表で追ってみましょう。

   1877年 日本に初めてコーヒーが輸入される
   1886年 日本橋にコーヒー店『洗愁亭(せんしゅうてい)』開店
   1888年 上野に鄭永慶(ていえいけい)のコーヒー店『可否茶館
        (こーひーさかん)』開店
   1911年 銀座に水野龍のコーヒー店『カフェ・パウリスタ』開店
   1937年 コーヒー需要のピークを迎える
   1938年 コーヒーの輸入制限(戦時中の為)
   1950年 コーヒーの輸入再開
   1960年 コーヒーの輸入自由化

日本のコーヒー史は未知の飲み物からハイカラな飲み物へ、そして生活に欠かせない飲み物への変遷史の様です。
そして今はスペシャルティの時代でしょうか?
コーヒーにアペラアシオンが導入された現在の今後のコーヒーの動きには、要チェックですね。

次回は、いよいよ連載企画《コーヒーの伝播史》の最終回です。

≪コーヒーの栽培史(マルティニーク〜中南米)≫
ガブリエル・ド・クリューが苦難の旅の末に運んだマルティニーク島のコーヒーノキが基となり、カリブ海の島々や中南米がコーヒー生産地となって行きました。

 1722年 フランス ギアナで栽培開始
 1723年 クリュー マルティニーク島へ
 1727年 ギアナからブラジル パラ州へ
 1728年 マルティニーク島からジャマイカへ
 1750年 グァテマラへ
 1790年 メキシコへ
 18世紀末 コロンビアへ

ここでまた筆者の私の余談です。カリブ海の島々の事を別名で西インド諸島と呼ぶ事が ありますが、それはどういう意味なのでしょうか?
【西インドと東インド】
15世紀末に始まった大航海の旅でインド洋航海路を知っていたヨーロッパ人は、大西洋を回るルートでもインドにたどり着ける筈だと信じていました。初めてカリブ海の島々に降り立ったヨーロッパ人は、そこをインドだと思っていました。後にカリブ海周辺のことを西インドと呼び、インドの事を東インドと呼ぶようになったのです。
・     ・     ・      ・     ・      ・     
 ・ 

コーヒー栽培史には幾つかのエピソードがありますが、18世紀の中南米の栽培史には 恋のエピソードがあります。
【ブラジルへ】
ポルトガル領ブラジルに隣接するフランス領ギアナでは、コーヒー栽培が盛んに行われていました。ブラジルは自国でもコーヒー栽培をしたいと思い、ギアナに海軍仕官フランシスコ・パリヘッタを別件で派遣します。
ギアナ滞在中パリヘッタとギアナ総督婦人との間に恋が芽生えたと言われています。
パリヘッタの滞在期間が終わる頃、帰国前のパーティーで、総督婦人がパリヘッタに渡した花束の中にコーヒーノキの苗木が忍ばせてありました。こうしてパリヘッタが持ち帰ったコーヒーノキがブラジルのコーヒー生産国に導いたと
言われています。

1727年 ギアナからブラジル パラ州へ栽培導入

このようにして、コーヒー栽培史の旅は18世紀までに現在のコーヒー生産地帯(コーヒーゾーン)を作り上げました。

次回は、日本のコーヒー史のお話です。

                                つづく。

≪コーヒーの栽培史(オランダ〜フランス〜マルティニーク島)≫
17世紀前半に隆盛を誇っていたオランダは、17世紀末になるとその力も衰え、18世紀にはフランスの傘下に入ります。コーヒー栽培の実権も、オランダからフランスへ移る事になります。

1714年 オランダがフランス ルイ14世にコーヒーノキの苗木を献上する。パリ植物園に移植されたコーヒーノキは、厳しい管理下で育てられる。

読者の皆さんは、この短い記事の一文にどんな印象をお持ちになりますか?
筆者の私には『献上』という言葉が印象に残りました。
この言葉は、フランス・オランダの2国間関係だけではなく、当時のヨーロッパ諸国がせめぎ合っている様子を想像させますね。この時代の諸国の力関係は刻々に変わって行きます。
それでは、コーヒーの飲用史・栽培史にも登場する『ルイ14世』とはどんな人物なのでしょうか?

【ルイ14世】1638〜1715 在位1643〜1715
フランス・ブルボン朝を代表する国王で、その権力の大きさから太陽王と呼ばれました。王権神授説を唱え国内では絶対的な力を持ち、大陸政策では領土拡大を目指しました。また、ヴェルサイユ宮殿を建てて文化を保護し、華やかな宮廷文化を築きました。

コーヒーの飲用史にも、ルイ14世と次のルイ15世の時代に宮廷内でコーヒーが盛んに飲まれていた事が伝えられています。
(ラクダメール連載第5回)
・       ・        ・      ・        ・   
このようにしてフランス国内で育てられていたコーヒーノキの苗木を、海軍士官ガブリエル・ド・クリューは苦心の末に数本手に入れたと伝えられています。
そしてクリューはそのコーヒーノキを持って大西洋を越え、任地であるカリブ海のマルティニーク島に運びました。
 
クリューのフランスから大西洋を越える旅は、苦難の旅でした。途中荒波にのまれ、海賊に襲われる危険に遭遇しながらの旅でした。
飲み水も不足する事態になりましたが、クリューは自分の飲み水をコーヒーノキに与えて航海の旅を続けたと言われています。

1723年 ガブリエル・ド・クリュー マルティニーク島にコーヒーノキを運ぶ
そしてクリューが植えたマルティニーク島のコーヒーノキは、カリブ海の島々や中米のコーヒー栽培の原木となりました。
その後、中南米のコーヒー栽培の実権はフランスが握っていく事になります。

コーヒー栽培の旅は、まだまだ続きます。

ババ・ブーダンがメッカからインドに持ち帰り、インドで移植栽培に成功したコーヒーノキは、東インド会社の仕事でインドに来ていたオランダ人の目に留まりました。
オランダ人はインドからコーヒーノキを持ち出し、自国の植民地で栽培を試みます。
そして、その後、コーヒー栽培の主導権はオランダが握っていきます。
この時代は、オランダがヨーロッパに於いても隆盛を誇っていた時期に重なります。

ここでまた、いつもの筆者の余談ですが、・・・。
コーヒーの歴史を語って行く際に、世界史の関連知識があると大変便利です。コーヒーの栽培史に関連して少しだけ、オランダとはどんな国なのでしょうか・・・。

【オランダについて】
オランダはスペイン統治から16世紀に独立。17世紀始めには東インド会社設立などでヨーロッパ各国を抜いて主導権を握り、海外雄飛し日本とも交易しています。17世紀後半になりイギリスに海上覇権を奪われて衰退し、18世紀にフランスに併合されます。
現在のオランダ王国は、19世紀のウィーン会議で誕生しています。

【オランダ東インド会社について】
胡椒などの香辛料や東南アジアの生産物を現地と取り引きする企業体として、1602年に設立されました。17世紀前半はイギリスやフランスの東インド会社をリードする勢いで、 ジャワ島などに強い影響力を持っていました。

     ・   ・   ・   ・  ・  ・

この章では、コーヒーの栽培史にオランダが関連したエピソードをお話しします。
【インドネシアへ】 
オランダ人は、インドで栽培されたコーヒーノキを、インドネシアのジャワ島(当時のオランダ植民地)に移植栽培しようとしました。
何度も全滅の危機がありましたが1699年、栽培が成功しました。

【オランダへ】
インドネシア・ジャワ島で栽培されたコーヒーノキは、1706年、本国オランダへ持ち込まれます。オランダの植物園でも栽培が続けられます。

オランダ本国で育てられたコーヒーノキの苗木は、ある国のある人物の手に渡されたと伝えられています。そして、その事によってコーヒーの栽培の実権はその国へ移っていく事となります。

それでは、そのある国のある人物とは誰なのでしょうか?

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